長崎県警察史 下巻
分類コード:III-005
発行年:1979年
第五節-第六節
「長崎県警察史 下巻」(国会図書館蔵)より引用
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- 長崎県警察本部
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長崎県警察史編集委員会『長崎県警察史 下巻』(長崎県警察本部 1979)p1023~1026
二、針尾の俘虜送還業務(第三国人)
俘虜及び抑留外人と、外地邦人引揚げのため佐世保港(針尾浦頭港)が指定港に、旧針尾海兵団が収容所にあてられるように決まったのは、昭和二十年十月二十七日であった。その頃は、まだ引揚援護局の発足する前で、県の援護課が担当していたが、永野知事は、この混乱時にこの業務に当るのは、援護課にのみ任し切れないと、警察官を派遣することにした。後に、厚生省引揚援護局と改称され、移管されたのは、同年十二月一日であった。
前にも述べたように、針尾に受入れる俘虜及び抑留外国人は、いわゆる第三国人といわれた朝鮮・中国人が主で、戦勝国民に列した彼等の中には、相当、目に余る乱暴もあり、これが送還に当面した警察官に、敗者の悲惨さをまざまざと見せつけた。
このときの状況を、当時、針尾に派遣された警視豊島徳治は手記で次のように述べている。
…業務は全国から集まる俘虜、その他抑留外人を受け入れ、宿泊者が二千名に達すれば米軍輸送船で送還した。国で実施する業務、すなわち賄から警備一切を、県の出張所で処理するので、機構はもとより、救護措置なども充分ではなかった。しかし、俘虜の中国人・朝鮮人等は戦勝国人であると誇示して、当時は相当乱暴な振舞もあった。
邦人引揚者の悲惨な上陸姿と対照的に、俘虜は北海道の炭鉱方面で働いていた者が相当多く集結したので、彼等は立派な防寒服をまとい、鉱山・工場等の責任者が世話役として同行した。専用列車も彼等の暴力で、長崎線を鹿児島線に入れさせて、予定時刻に到着せず深夜に到着したことも何回かあった。またあるときは、飯が冷えていると全部外に捨てられて炊ぎなおして給食したこともあった。
送還船の出港口は、午前六時ごろ宿舎の外で一応点検して、前頭港までトラックで運搬して乗船した。また、針尾の宿舎に到着するのは夜間おそく、収容者数も多いので事故も多かった。勤務員は靴を脱いで寝たことはなかった。
あるとぎは一、〇〇〇人ぐらいの中国人と、朝鮮人の送選者が乱闘して、警察では措置できず米軍の威嚇射撃で鎮圧したこともあった。
その頃、南風崎駅から東京上野行急行が発車していたので、送還途上俘虜の暴行で、警察官が犠牲になった事故も他県では発生した。
なお、この当時、針尾収容所を中心として、中国人の一部が起こした暴行事件については、県議会史の中でも次のとおり明らかに記されている。
…藤松義雄君―中華民国国民たちが非常に我々同胞に対して圧迫を加え、暴力を加えておるのであります。その暴力に対して正当なる防衛をし得る所の権利と申しますか、権利はないかも知れませぬが、それを日本の警察官は取締り得ないものであるか、或はそれを予防し得る何等か方法はないものか、最近のことでありますが、南風崎の駅付近では相当組織的な乱暴狼籍を働いておる…
これに対し、三川警察部長は、
…中華民国人の暴行に関しては日本に居る以上日本の法律に服すべきものであることは連合軍も指示している。唯、現在の様な状況下に於て日本人と同様警察権を行使することは非常に困難である。警察権を行使したために却って事態を拡大するような危険もあるので、連合軍と十分連絡を取って、連合軍の力も借りて処置したいと考えている。
と述べている。
次に、この問題について議員田代弘蔵の質問も議会史では、次のように掲げられている。
…田代弘蔵君―…第二には早岐駅前の派出所に対して中華民国の青年が襲撃を致しました事件、第三は同じく早岐駅に於ける中華民国青年団の襲撃事件…詳しく御報告をお願い致したいと思います。
三川克己君(警察部長)…早岐駅に於きまする台湾人復員者の暴行事件でありますが、是は本年十月二十九日に早岐駅巡査派肘所前を通行中の台湾復員軍人を、同派出所の古賀巡査が挙動不審と認めまして調べたのであります。同日午後四時頃五、六十名の台湾復員者が大挙して参りまして、同巡査に暴行を加えようとしたので、同巡査はこれを待避した。更に翌三十日午前十一時頃台湾復員者五十名位が乗車切符を買おうとして、駅員から断わられたため非常に激昂して、派出所の池田巡査が之を説得したところ、却って激昂して交番に押し寄せてきた。これに対し警備隊員四十名が出動し、事なきを得た。更に同日午後○時三十分頃台湾復員者五十名位が、再び日本刀とか棍棒を待って、駅付近に待機していた警備隊員八名に対し暴行を加え警察官五名が傷害を受けた。
早岐署長は早速事件の処理を佐世保連合軍司令部に申込んだところ、司令部のフレーザー少佐は連絡委員会の委員や、早岐署長を伴なって旧針尾海兵団に出向き、復員軍人と懇談の結果、今後できるだけ外出しないこと、外出する場合は指導者を付して外出する等の条件を指示し、本件は円滑に解決し其の後台湾復員軍人は平穏になった。 (「長崎県議会史」第五巻)
大体、このような第三国人による不法行為は、前に三川警察部長が答弁した中にもあるとおり、確かに日本人と同様に警察権を行使することは、かえってマイナスを生じる微妙な世相であっただけに、連合軍とのよりよい連絡協調による支援が必要であった。
その後、本県警察が敗戦下、よく隠忍自重して、苦難に忍えた針尾収容所からの送還業務は、同じ針尾収容所からでも、この章に記した連合国の俘虜、抑留外国人等と異なり、第三国人として帰国希望のいわゆる中国人・朝鮮人が対象で、中でも不正入国朝鮮人の強制送還が主体となった異質のものであるから、その状況は、第六節に記すことにした。
p1031-1033
第六節 密航警備・密入国者の受入・強制送還
一、密航警備
昭和二十一年(一九四六)春以来、朝鮮人の引揚げは低調になっていったが.逆に朝鮮から日本へ不法入国して来る者が目立って多くなった.同年の四月には、山口・長崎・福岡の三県下で五七七名、翌五月には山口・福岡・長崎・佐賀の四県下に一、五三四名の再渡航者があった.前掲「出入国管理とその実態」の中では、全国では同年四月から十二月まで、当時徴弱な警察力だけで検挙した数は一万七〇〇〇余人に達したが、おそらく、それに数倍した者が潜入したと推定している.
この年の夏、朝鮮でコレラが蔓延し、これら密入国者を媒介して、占領治下の日本に伝播する危険があったので.総司令部は、日本内地への侵入を防止するため、同二十一年六月十二日、「日本への不正入国の撲滅」(指令一〇一五号)を指令した。
その要旨は、日本港への不正入港船舶を積極的に発見逮捕すること。そのための効果的な措置をとること。捕獲した船舶は乗員載貨とも仙崎・佐世保或は舞鶴へ航行し、米軍へ引渡すこと等であった。
(指令については、第一章終戦直後の主なる連合国の指令「不正入国者の取締抑留」参照)
この指令により、六月二十日には終戦連絡中央事務局は、指令を実施するため運輸省の九州及び中国海運局長・燈台局長に対し、密航船を捕獲した場合、指令の通り仙崎・佐世保又は舞鶴に回航して、同地米軍官憲に引渡すことのほか、九州海運局長は海龍・海鳳・富士の三曳船、その他国有・私有の船舶で特別沿岸警備を組織する等々のほか、政府では内務・大蔵・厚生・運輸各省が充分協力し、これが任務遂行のために必要な燃料・武器・器具・警察力等に関する援助を最高司令部に申請すること等を報告した。本県には、同年六月二十四日佐世保駐屯米軍第三十四連隊より、不法入国者取締のため、沿岸警備措置を講じるよう指令があり、さらに内務省警保局長から、沿岸監視隊の設置、並びに密航者収容施設の設置指令があった。そして、同年七月佐世保引揚援護局の針尾収容所の一部が不法入国者の収容所となったほか、特に、内務省はその取締のため九州・中国の沿岸に監視哨を配置し、船舶とあわせて沿岸警備を厳重にした。不法人国者の検挙数が同二十二年に激減したのは、こうした取締体制の充実したことと、総司令部の指示もあり、また「外国人登録令」(昭和二二・五・二勅令 第二〇七号)の公布によるものとも思われる。しかし、総司令部は、「日本への不法入国の抑制」(昭和二一・一二・一〇 指令一三九一)をもって、前記同年六月十二日(指令一〇一五)等の覚書を取消した。(第二章第二節参照)
この指令により、日本国内で逮捕された総ての不正入国朝鮮人は、一応検疫の上、佐世保収容所(針尾)からのみ輸送船により釜山へ送還することになり、これらの警備・送還業務全般は、全国でただ一ヶ所、本県警察のみが携わる任務となったのである。
ちなみに、外国人登録令の施行(昭和二二年五月)後は、不法入国者の退去強制はその規定により行ったのであるが、当初は、総司令部の覚書に基づいて、現地軍政部の指示により、処理されており、送還者の中には不法入国者のほか、軍事裁判、及び連合軍指令による追放者も含んでいた。昭和二十一年以降二十五年十一月まで送還された者は四万六千余人であった。
(前掲「出入国管理とその実態」)
本県警察の針尾警備課のこの業務は、昭和二十五年十二月二十一日、出入国管理庁に移管し、終戦後本県警察にとって特異な難問題、送還業務は終止符が打たれた。この間、本県警察の手で受入れ送還した不法入国者の数は、四万七二九人となっている。
(「針尾警備課の廃庁」警鼓 昭和二六年二月号)