朝鮮新聞 1930年(昭和5年)2月18日付より引用 激増した鮮人の内地渡航
1930(昭和5)年2月13日付『大阪每日新聞朝鮮版』と同じく、旧正月の帰省を終えて内地へ再渡航する朝鮮人数についての記事。但し、こちらは統計的、全体的な数字ではなく、関釜連絡船の混雑状況について触れている。
当時の関釜連絡船は、釜山からは午前9時30分発の昼航(午後7時下関着)、午後10時30分発の夜航(翌朝の午前6時30分下関着)の1日2便であり、昌慶丸、徳寿丸、慶福丸が就航し、1日2往復していたが、旅客や貨物が多い時は新羅丸(客船)、多喜丸(貨物船)を臨時に増便運航していた。慶福丸、徳寿丸、昌慶丸の定員は一等船室45名(運賃12円15銭)、二等船室203名(昌慶丸は204名、7円10銭)、三等船室690名(3円55銭)であった。記事中にあるように、内地人と朝鮮人450人~500人が合わさって、その定員を超過したため、臨時便が増発されたのであろう。
本記事は韓国国史編纂委員会韓国史データベースに所蔵。
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